教科書の不確定性(最後におまけ)

先日あった、ハイゼンベルクの不確定性原理*1が破れた、というニュースについて、主に物理学者/物理学徒向けの記事を書きます*2。(アメリカの)大学、大学院で良く使われる教科書での不確定性結果の記述、説明を調べた結果なのですが、最後のおまけは物理の人でなくても大丈夫かもしれません。


発見の詳しい説明は[twitter:@hidarikawa_p]さんの「http://www.ssl.berkeley.edu/~ishikawa/uncertain.html(中身は日本語)」に大体お任せしますが、ここでも手短に説明します。


物理学者が普通の量子力学の授業で習う不確定性原理は、ケナード・ロバートソン不等式、またはロバートソン不等式と呼ばれるもので、系の状態にどれだけの精度を持って物理量を対応させる事が出来るかを表す関係です。これは、問題となる物理量を測定するかどうかとは関係なく、常に成立するものです。


一方、ハイゼンベルクの不確定性原理と呼ばれているのは、物理量を測定する事によって系の状態が乱され、これによって他の物理量の値に予測できないズレが生じてしまう、というものです。今回話題になっている小澤不等式というのは、この2つの不確定性の元を統一的に扱って、測定に現れる不確定性をより厳密に表した式なわけです(1/19 10:35修正)。


今回示されたのは、ハイゼンベルクが元々考えた測定のために起こる不確定性原理の式が間違っていた、という事で、ロバートソン不等式には傷はついていません(これが破れると大問題になります)。ただ、ハイゼンベルクがこの2つを混同してしまったのにつられたのか、多くの教科書や一般向けの解説書で、不確定性が生じるのは測定のため、という間違った説明*3がされてきました。今回のニュースで、「教科書が書き換えられる」という声、「教科書はすでに書き換えられてる」という声、両方を目にしたので、実際に確かめてみようじゃないか、と考えたわけです。


確認したのは、前から知っていた教科書と、ネット上にあったシラバスをいくつか見て、かなりの授業で使われていると思われた教科書、計17冊。アメリカの学部向け、院向けに分けて列挙すると*4


(アメリカの)学部向け:
Bohm, Quantum Theory (1951)
Eisberg & Resnick, Quantum Physics of Atoms, Molecules, Solids, Nuclei, and Particles (1974)
Feynman, The Feynman Lectures on Physics, Vol. III (1965)
Gasiorowicz, Quantum Physics (2003)
Griffiths, Introduction to Quantum Mechanics (1995)
Liboff, Introductory Quantum Mechanics (1992)
Mandl, Quantum Mechanics (1992)
Shankar, Principles of Quantum Mechanics (1994)


(アメリカの)大学院向け:
Baym, Lectures on Quantum Mechanics (1969)
Cohen-Tannoudji, Diu & Laloe, Quantum Mechanics (1977)
Dirac, The Principles of Quantum Mechanics (1958)
Gottfried & Yan, Quantum Mechanics: Fundamentals (2004)
Landau & Lifshitz, Quantum Mechanics (1958)
Merzbacher, Quantum Mechanics (1970)
Messiah, Quantum Mechanics (1958)
Sakurai, Modern Quantum Mechanics (1985)
Schiff, Quantum Mechanics (1968)


不確定性原理の説明に目を通してみて、大雑把に以下の5つに分類できました*5
1. 問題無し
2. 脚注に問題あり
3. 面白い間違いあり
4a. 測定の問題とする記述
4b. 「ハイゼンベルクの顕微鏡」による説明

順に見ていきます。著者名の横に、不確定性原理の現れる箇所も書いておきます(一部)。

1. 問題なし

Baym, 3
Cohen-Tannoudji, Diu & Laloe, I.C.2-3
Dirac, IV.24
Landau & Lifshitz, 1
Sakurai, 1.7


BaymとSakuraiは、解説に誤りはないのですが、分量もさほど無いです。ロバートソン不等式を導出して、測定を行った場合に現れる値の分布との関係を簡潔に述べて終わり。この記事の脚注にあるように、不確定性は「原理」ではないわけで、これくらいの扱いもある意味正しいのかもしれません。


他の3冊には、それなりに面白い解説があります。どれもノーベル賞受賞者が書いた本ですね。


Cohen-Tannoudji, Diu & Laloe, I.C.3
"The inequality (C-18) with which we started is not an inherently quantum mechanical principle. It merely expresses a general property of Fourier transforms, numerous applications of which can be found in classical physics. ... Quantum mechanics enters in when one associates a wave with a material particle and requires that the wavelength and the momentum satisfy de Broglie's relation."
これは位置・運動量の不確定性の説明。フーリエ変換で対の関係にあるものには不確定性が生じるもので、波動現象ならば古典力学でも起こるという事を強調した説明です。


Dirac, IV.24
"It shows clearly the limitations in the possibility of simultaneously assigning numerical values, for any particular state, to two non-commuting variables ... It also shows how classical mechanics, which assumes that numerical values can be assigned simultaneously to all observables, may be a valid approximation when h can be considered as small enough to be negligible."


Landau & Lifshitz, 1
"In quantum mechanics there is no such concept as the path of a particle. This forms the content of what is called the uncertainty principle, one of the fundamental principles of quantum mechanics."
この2つは、全ての物理量に厳密な数値が与えられる、という古典的な仮定が誤っている事を強調した説明。

2. 脚注に問題あり

Griffiths, 1.6, 3.5.1
Merzbacher, 2


この2冊では、本文には見事な解説があるのですが、測定によって不確定性が起こるという思考実験を脚注で紹介しています。2つの不確定性を混同したものなので、残念ながら満点はあげられません。

3. 面白い間違いあり

Gottfried & Yan, 1.1(b), 2.3(c)
Bohm, 5.2, 5.3, 5.6-8


これは、量子力学の解釈などにも踏み込んだ2冊。不確定性原理の間違った解説があるのですが、間違い方が興味深いです。


Gottfried & Yan, 1.1(b)
"If the two regions cannot be connected by light signals, then there is no restriction on the accuracy to which the two fields in question can be determined, because no measurement in one region can then produce an effect in the other region."
これは、EPR思考実験などを踏まえて、測定による不確定性原理が成立しないケースがあると認めているんですね。ただ、ロバートソン不等式とこれは無関係。2つの不確定性がある事を認識していないのかな、とも思うのですが、もう少し読み込まないと分かりません。


Bohm, 5.3
"Can we think of the electron as something that has, simultaneously, well-defined values of position and momentum, which are uncertain to us because we cannot measure them with complete precision; or are we to think of the lack of complete determinism as originating in the very structure of matter itself? We shall see ... that the indeterminism is inherent in the very structure of matter and that the momenum and position cannot even exist with simultaneously and perfectly defined values."
不確定性は、我々に測れないだけなのか、それとも物質の構造として不確定なのか?という重要な疑問を投げかけて、物質の構造がそうなっているのだ、という(正しい)答えを出しています。不確定性に2つの原因がある事を認識しているわけです。


それなのに、5.8でBohmは測定によって不確定性が生じる、という解説を使っています。どういう考えでそうなったのか、これも読み込まないと分からなそうです。

4a. 測定の問題とする記述

Mandl, 3.3
Schiff, I.3-4


この2冊では、不確定性原理は物理的な状態に与えられた条件ではなく、測定値に対する条件だという説明がされています。

4b. 「ハイゼンベルクの顕微鏡」による説明

Eisberg & Resnick, 3-3
Feynman, 1-6, 1-8, 2-6
Gasiorowicz, 2.2, 2.5
Liboff, 2.7, 2.9
Messiah, IV.2, IV.7, IV.12
Shankar, 4.2


これらに出てくるのは、「ハイゼンベルクの顕微鏡」と呼ばれる思考実験や、その亜種。位置を精密に測るためには、短い波長の光を当てなければならず、短い波長の光の運動量は大きいので、次に運動量を測ろうとすると大きな誤差が出てしまう、という説明です。


なぜこれが量子的な説明かというと、こういう事です。古典的な電磁気学では光はただの波なので、波の振幅を0に限りなく近づけられます。量子力学になると、光子1つをぶつけるよりも影響を小さくすることが出来ず、測定を行った場合には最低限の影響が出る、というわけです。


もちろん、これはハイゼンベルクの不確定性の説明であって、ロバートソン不等式とは無関係なんですね。

おまけ

そういえば面白い話が書いてあったような気がしたな、と思ってもう1度見てみたらやっぱり面白い話が書いてあったのがKarl Popperの"Quantum Theory and the Schism in Physics" (1956)。ちょっと引用します。


1.3
"My second thesis is that statistical questions demand, essentially, statistical answers. Thus quantum mechanics must be, essentially, a statistical theory.
...
Largely owing to the fact that the problems of the theory were not (and still often are not) seen to be statistical, other reasons were invented to explain the widely admitted statistical character of the theory."


1.5
"[Heisenberg's uncertainty relations] are, beyond all doubt, validly derivable statistical formulae of the quantum theory. But they have been habitually misinterpreted by those quantum theorists who said that these formulae can be interpreted as determining some upper limits to the precision of our measurements (or some lower limits to their imprecision).


My thesis is that these formulae set some lower limits to the statistical dispersion or 'scatter' of the results of sequences of experiments: they are statistical scatter relations. They thereby limit the precision of certain individual predictions."


不確定性原理は、量子力学における予測が確率的なのを踏まえて、その確率分布の統計的な性格を表すものだと。実験を何度も行った場合の、結果の統計的なゆらぎに対する制限であって、1回の実験に対する制約ではない。量子力学で答えられる質問が統計的なものだという事が認識されなかったために、不確定性の生じる物理的なメカニズムを物理学者は求めてしまった、と言うんですね。


これは、恐らくその通りでしょう。


素粒子や核物理の分野では、量子力学を道具としては使うけれど、解釈問題には触れない、計算結果が合えば良い、という態度が主流といって良いと思います。不確定性原理の意味も、その避けられた部分の1つで、ハイゼンベルクの説明は何となく正しそうだから良いだろう、と放って置かれたところがあります。小澤不等式も今回やっと検証できたわけで、これまでの実験に関して言えば、間違った解釈でも計算結果は合っていたわけです。


今回、僕が調べた教科書の記述も、本全体の良し悪しと言うよりは、どれだけ解釈的な問題に踏み込んでいるかの判断になっているように思います。素核の問題を解いている分には、不確定性原理の意味を知らなくても答えは違わないので*6、別にMessiahやSchiffで量子力学を学んでも問題があるわけではありません。


ただ、今回のように量子力学の基礎に迫る、精度の高い実験が行われるようになってきて、量子力学の意味を考える重要性は増しています。最近の教科書では、EPRパラドックスやBellの不等式の解説が増えていて、これは良い傾向だと思います。不確定性原理の解説は、残念ながら新しいほど良くなる傾向はあまり見られません。良いものが認識されるよう出来る事をやっていこうと思います*7(1/19 0:51修正)。

*1:伝統的には不確定性「原理」と呼ばれるものですが、量子力学の他の原理から導かれるものなので、不確定性「関係」の方が適切かと思われます。

*2:ニュース記事は「ハイゼンベルクの不確定性原理を破った! 小澤の不等式を実験実証 | 日経サイエンス」など

*3:少なくとも、不完全な説明。

*4:アメリカの、とわざわざ書くのは、日本の学部生の方が物理の専門教育ではアメリカの学部生よりかなり先に進んでいると思われるからです。

*5:昔から定量的な表現があった不確定性原理はロバートソン不等式なので、それに即した説明が出来ているかどうかを問題にしています。

*6:そもそも、不確定性原理自体を使う事など殆どありません

*7:その前にやるべき事は色々ありますが…