書評:「猫のゆりかご」カート・ヴォネガット

学部の頃、私立の高い学費のほとんどを奨学金でカバーしてもらっていたのですが、この奨学金にはドナーの名前が付いていました*1。そして毎年1回、奨学金の寄付をしてくれているドナーと、貰っている学生をみんな集めてのディナーがありました。ドナーとしては、どういう学生にお金を出しているのか知るのは満足感があるものかと思いますし、大学としても、学生にサポートして貰っている実感を持ってもらうと後々寄付を貰えるのでは、という目論見があるのでしょう…という話は置いといて、確か2年生の時のディナーで、僕の奨学金のドナーだったおばあさんにこういう質問をされました。


「自然の色んな事を解明できる物理学が専攻とは、素晴らしい。ただ、物理学の進歩のために核兵器が作られるような事もあった。そういう研究はされるべきだったのか?どうすれば科学が人間のためになる使い方をされるように出来るのか?」


この時の自分がどう答えたのかはよく覚えていません。戦争で核兵器を落とされた日本で生まれた事など絡めて何か言ったのでしょうが、覚えていないくらいなので大した答えは考えていなかったのではないかと思います。簡単な答えがある問題ではないと思いますが、何かあるごとに思い出します。今月の初めに、飛行機でカート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」を再読した時にも思い出しました。


猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)


Cat's Cradle (Penguin Modern Classics)

Cat's Cradle (Penguin Modern Classics)


と言ってしまうと重苦しい話のようでまずいですね。深刻なテーマを扱いながら、ユーモアの絶える事がないSF小説です。


この本の影の主人公は、第二次大戦中、原爆の開発に携わった(架空の)科学者フェリックス・ハニカー。すでに亡くなっているハニカーの足跡を辿っているうちに、ナレーターは彼の3人の子供の人生に巻き込まれていきます。カリブ海の独裁国家サン・ロレンゾ、教義はウソだと明言しているおふざけ宗教ボコノン教、ハニカーが残した危険物質アイス・ナインという小道具を使って、ヴォネガットは世の中のいろんなものを痛烈に風刺します。


まずは物語として楽しんで欲しいですが、以下、この小説の寓話的な要素を自分が勝手に解釈したものを書いてみます。少しだけネタバレ有り。


核戦争の危機が迫っていた1960年代に書かれた事もあって、科学技術とどう付き合うか、というのが一番のテーマです。まず目立つのは、真実を見つける事だけに没頭し、他人がそれをどう使うかには関心を持たなかったハニカーと、"New knowledge is the most valuable commodity on earth."と語る彼の上司。これは科学原理主義と言ってもいい態度で、当然ヴォネガットはこれを科学技術の暴走の一因として糾弾しているように見えます。


ただ、ヴォネガットは科学者以外の人のもつ、科学についての誤解も鋭く指摘しています。ナレーターが訪れたバーでの会話:
"He said science was going to discover the basic secret of life someday," the bartender put in. He scratched his head and frowned. "Didn't I read in the paper the other day where they'd finally found out what it was?"
...
"What is the secret of life?" I asked.
...
"Protein," the bartender declared. "They found out something about protein."


バーテンダーは最近の新聞で、科学者が命の秘密を見つけた、と言う記事を読み、そしてその秘密とは、タンパク質の事らしい、というのをなんとなく覚えていたわけです。ここには、科学者が言っているからそうなんだろうという漠然とした信頼、実際にどういう話だったのかは覚えていない無関心、そして科学が"the basic secret of life"などというものを発見できるという主張に疑いを挟まない無理解があります。


一言でまとめてしまうと、どちらにも「科学リテラシー」が欠けているのです。科学に何が出来て、何が出来ないのかが分かっていない。科学を「制御」しようにも、科学に何が出来るのか分かっていなければ無理でしょ、と言うヴォネガットの焦りを僕はこの本から読み取りました。


そのどうしょうもない現世的なものと比べて新鮮なのが、人間に分かる事なんてほとんど無いんだから、開き直って嘘を愛してしまおう、というボコノン教。こんな宗教を思いつきで創り上げられるヴォネガットの才能には驚きます。これは読んで味わってもらうしか無いですが、人間が陥りがちな罠への警告として、とても面白いものです。


その罠の最大のものは、本の最初の方に出て来ます。
"the folly of pretending to discover, to understand"
物事を発見したつもり、理解したというつもりになる愚かさです。

*1:ツイッター見てる方ならご存知と思いますが、アメリカの大学です