ヒッグス粒子には出来ないこと

前回の「ヒッグスは99.98%の確率で見つかったのか? - 物理学と切手収集」は、読んでいない方にはまずおすすめします。前回は、ヒッグス粒子の発見の確率の誤解に話を絞りたかったので、物理の話はあえてしませんでした。今回は、僕が見かけたヒッグス粒子の物理の誤解について。


前回と比べてしまうと、予備知識が大量に必要かと思います。質問があったら聞いてください。

ヒッグス粒子vsヒッグス場

一番難しいところから…*1


「空間がヒッグス粒子で満たされる事で質量が生まれる」、のような説明が良くありますが、これは間違いです。空間を満たしているのは、ヒッグス場*2。言葉だけではとても満足な説明が出来そうにはないのですが、ヒッグス場という海が空間を満たしていて、ヒッグス粒子はそこで起こる波のようなもの、というのが、今のところ思いつく限りの表現です。




本当にこの辺を知りたい人は、場の量子論というのを勉強する必要があると思います。これは大変。*3


この下は、ヒッグス場にも出来ないこと。(12/23 9:00 追加)

「万物の質量の起源」

これは朝日などから。


ヒッグス場が質量を与えているとされるのは、陽子や中性子を構成しているクォーク、電子などのレプトン、弱い力を媒介するWボソンとZボソン、です。日常生活で出会う物質は、陽子、中性子、電子の3つで出来ているので、ヒッグスが全部の物質に質量を与えているんだ、と思われるかも知れません。


でもこれも間違い…残念ながら。陽子や中性子はクォーク3つで出来ている、と言うのがクォーク説の大雑把な内容ですが、陽子、中性子と、クォークの質量を比べてみると大変なことが分かります。MeVという単位で測ると、陽子と中性子の質量は約900MeV。これらを構成しているはずのクォークの質量は、10MeVもないと考えられています。10にならないものを3つ足して、900になるとはどういう事でしょう??


実は、陽子や中性子の質量の大部分は、中を動き回っている素粒子の運動エネルギーです。これはヒッグスとは無関係*4


アインシュタインの有名なE=mc2という式は、「質量はエネルギーに変えられる」という風に説明されることが多いように思います。この式の本当の意味は、「(相対論的)質量はエネルギーの量を表していて、c2を掛ければエネルギーに換算できる」という事です。(この「相対論的質量」というのが、普通に「質量」と言った場合に意味する静止質量ではない事も誤解の元*5。)


陽子や中性子が1ヶ所にとどまっている場合でも、中にあるクォーク、クォークを繋ぎとめているグルーオンという粒子、そして生まれては消えるクォークと反クォークのペアは、せわしなく動きまわっています。この内部の運動のエネルギーが、陽子や中性子の質量として観測されるわけです。*6


あ、あとニュートリノの質量の元は、ヒッグスが原因、と言う説が有力ですが、未解決問題と呼んでいいと思います。(12/20 0:39 修正)

重力を起こす

質量、と聞いたら重力を思い浮かべるのは、ある意味仕方がないですね。ただ、ヒッグス粒子と重力には関係があるとは考えられていません。これは、幾つかの誤解が混ざっているように思います。


まず、質量がないと重力が働かない、というのは間違い。現行の重力の理論はアインシュタインの一般相対性理論ですが、この理論によると、あらゆるエネルギーに重力は影響を及ぼします。重力レンズ効果といって、光が天体の重力によって曲げられる現象も観測されています。


次に、物理学者たちは、素粒子のレベルで重力を記述することには成功していません。ヒッグス粒子を予測している標準模型という素粒子の理論には、重力は含まれないんです。*7


最後に、質量は重力が働くもの、というだけの理解もちょっと問題です。学校の物理学で最初の頃に習うのが、ニュートンの第二法則、F=maという公式です。これは、物体に同じ強さの力(F)が働いた場合、その物体の加速度(a)は質量(m)に反比例する、というもの。重力と全く関係なく、重いものほど動かしにくいんです。(12/20 12:58追加:この段落は、「慣性質量」の話ということで合ってます)

要するに

ヒッグス場が、素粒子に質量を与える事で、動きにくく*8してる。*9


そして、ヒッグス「粒子」の発見は、ヒッグス場の存在の証拠となるわけです。


とても大雑把な説明なので、省いた部分が沢山あります。これは大事だな、と思う疑問があれば、この下に追記として説明を加えるかも知れません。間違いの指摘はもちろん歓迎ですし、これも誤解なのでは?、という観測情報も気になります。

*1:これはもっと良い説明があったら教えて欲しいです。むしろ物性の人とかが知ってそう。

*2:もっと厳密には、ヒッグス場の真空期待値が0ではなくなる事で、素粒子に質量が与えられます。

*3:特殊相対性理論と量子力学を統合した枠組みで、現行の素粒子物理の理論はこの枠組の中で組み立てられています。

*4:追記:2012/7/4 18:48、もう1つの説明は、カイラル対称性の自発的破れによって、ハドロンは質量を持つことが出来る、というものですが、これはこの記事で書くには多分難しすぎます。

*5:でもこれ以上説明するのめんどくさい…

*6:クォークやグルーオンの間に働く力は、「強い相互作用」と呼ばれていて、QCD (Quantum chromodynamics、量子色力学)という理論で説明されます。

*7:これは、重力が極端に弱いからですが、これもちょっと面倒だから割愛。

*8:止めにくくも(2012/7/11 0:32追加)

*9:怒られそう…