Daniel Kahneman, "Thinking, Fast and Slow"を読んで

次にブログで本の話を書くならこれだな、と思っていた本の和訳が出たので、紹介しておきます。読んだのは英語の方で、翻訳の保証は僕からは出来ません。


Thinking, Fast and Slow

Thinking, Fast and Slow

ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?

ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?

ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?

ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?

最初に

著者のDaniel Kahnemanは、俗にいうノーベル経済学賞*1を受賞した人ですが、心理学者です。経済学賞を受賞したのは、経済学で使われる、人間の判断が「合理的」だという前提がどのように間違っているのかを示し、行動経済学と呼ばれる分野を切り拓いたため。人間が合理的だと仮定するのがそもそも無茶苦茶だったんじゃないか、と思われるかもしれません。個人レベルで見ればその仮定は確かに無茶苦茶とも言えると思うのですが、例えば、あるものの値段を高く見積り過ぎる人がいれば低く見積もり過ぎる人もいる事、さらに見積りの失敗に気付いたら修正するだろう*2、というような所まで考慮すると、そこまで的はずれな仮定ではないだろう、と考える事も可能です。KahnemanやAmos Tverskyが示したのは、人間の判断にはある特定の方向に揃ってズレる傾向(認知バイアス)があり、それが経済学での結論に影響を及ぼすことでした。


まず書いておきたい事は2つあって、1つは、この本は行動経済学の本である以前に心理学の本だという事。タイトルの「ファスト」と「スロー」は、人間の思考を行う主体が、即断型の「システム1」と熟考型の「システム2」に分けられる事に由来しています*3。本の主役は、この2つの思考プロセス。経済学への影響の話も本の後半に出てきますが、いくつかあるテーマの1つ、と言っていいと思います。


2つ目の前置きは、これは誰にでも当てはまる話だということです。目の錯覚が起きる、という画像を見ればほとんどの人が錯覚を起こすように、認知バイアスも、ある状況に置かれればほとんどの人が引っ掛かってしまうもの。そして、目の錯覚についての本を読めば錯覚が起こらなくならないのと同様、この本を読んでも認知バイアスがなくなるわけではありません。Kahneman自身が自分のバイアスに気付くエピソードも繰り返し登場するくらいで、判断の当事者になった場合、自分のバイアスを認識、修正するのは困難になります。この本で分かるのは、どのような場合にどのようなバイアスがかかりやすいのか、という知識と、そういったバイアスについて考え、話し合うための枠組みです。

"All men have opinions, but few think."*4

さて。本書の前半は、人間の判断のデフォルトはシステム1、いわゆる直感だという話。システム1の判断は、多くの場合には適切ですが、難しい問題についてはお手上げです。順序立てて考える能力を持っているのはシステム2ですが、システム2は怠け者。立ち止まって考えないといけないな、という認識がされるまでシステム2は起動しません…と言う話なのですが、これを僕がここで説明してもダメでしょう。Kahnemanは実験や身近な例えを散りばめながら、システム1とシステム2の特性を解説してくれています。読者それぞれが、読みながら自分の頭から湧いて出てきたアイディアや、過去の体験と当てはめて考えながら読み進めて欲しいです。


読みながら僕が考えた事の1つとしては、チェスや囲碁をしている際の頭の働きがあります。どちらのゲームでも*5、ある程度強くなってくると、良さそうな手が咄嗟に浮かんでくるようになります。この最初の勘が悪くない事は多いです。それはもちろんこれらのゲームでは、似たような場面で似たような手が良いことが多いから。ただ、この最初の勘が大きく外れている事も当然あります。最初に思いついた手より良い手を自分で見つけるためには、落ち着いて戦略を練ったり、順序立てて先の手を読む必要があります。最初の勘を出してくるのがシステム1で、戦略や読みで使われるのがシステム2、というわけですが、ここまではこのようなゲームの経験者なら当たり前の話だと思います。


Kahnemanの話のご利益は、どういった状況でシステム2が働くのかが書かれている事。僕が囲碁をやっていて一番驚いたのは、空腹の影響の強さです。空腹状態でも勘は働くのですが、時間をかけて手を読む事がほとんど出来なくなります。これは、システム2が作動している集中状態では、脳がエネルギーをいつも以上に消費している事で説明されます。お腹が減っている時には節約モードに入り、システム2は出来るだけ使わなくなってしまうわけです*6。これは、本を読む前から自覚症状のあったケースですが、自分では気付かないような裏技的なアドバイスもこの本には出てきます。

"The death of one man is a tragedy, the death of millions is a statistic."*7

システム1とシステム2が登場した後、これらの働きからどういった認知バイアスが生じ、実世界での人間の判断にどういった影響を及ぼすのか、という話に続きます。科学に関わるものとして特に興味深かったのは、人間の直感がいかに統計・確率的な考え方を苦手としているか、という部分。このブログでは以前、データを日常的に扱っているはずの科学者たちにとっても、統計を把握するのが難しいらしい事を指摘しました。


本に出てくる話に、その筋では有名なバスケットボール選手の「調子」についての研究があります。NBAなどの試合の放送見ていると、シュートを何本か続けて決めた選手について、"He has the hot hand"、などの表現で、次も決めるのじゃないかとアナウンサーが予想する事が良くあります。ところが、シュートの成功、失敗の順番を調べてみると、ランダムと区別が出来ない事が分かりました*8。シュートを連続で決めている選手が次にも決める事が多い気がするのは、幻想だという事です。


これに対するバスケ関係者の反応は、まず反発、そして無視でした。無視されているのは、今でも放送でそういった解説がされることから分かりますし、選手も監督も、味方の「調子の良い」選手にボールを回そうとし、相手の「調子の良い」選手をきつくマークします。「この選手は調子が良いから連続で決めている→次も決めるだろう」、というストーリーが、システム1にとって強烈すぎるのです。


スカウトなどの「専門家」の目より、統計分析の方が的確な結論を出すことがあるというのは、野球のMoneyballのテーマの1つでもありました。そしてスポーツだけではなく、今回のアメリカ大統領選挙でデータを元に予想した人達*9が、評論家たちに猛反発を受けた事も、統計というものが人間の求める「ストーリー」と相容れないもので、直感的に受け入れにくい事を示していると思います。その意味で、データを把握するために重要な「平均への回帰」が理解されたのがニュートンよりも200年も後だった、というのは納得の行くストーリー(笑)でした。

最後に

後半の行動経済学の部分は、個人の経済行動はもちろん、民主主義では市民が議論するべき政策に絡む話が出てきます。日本では、原発事故以降注目されるようになった色々なリスクの問題が、認知バイアスの例をいくつも提供してしまっているように思います。原発に限らず、紛糾している問題というのは何らかのバイアスが障害になっている場合が多くあります(アメリカなら、銃規制、地球温暖化、等々)*10。認知バイアスは誰もが影響を受けてしまうものだという事。特に、自分の信じている事を補強する話に注目してしまう「確証バイアス」の危険を、出来るだけ多くの人が認識した上で議論が進められるようにならないかと願っています*11


実は、僕が一番刺激を受けたのはまた違う部分で、最近Kahnemanが関わっている幸福度の研究*12の話でした。例として出てくる彼の研究にこのようなものがあります。まず、痛みを伴う治療の間、患者に苦痛の強さの変化を記録してもらいます。そして治療の後に、全体的にどれくらい苦痛だったかを評価してもらいます。これを比較して分かったのは、全体的な評価は、一番痛かった時の痛さと、治療の終わりの時点でどれだけ痛かったかに大きく影響される一方、苦痛だった時間の長さにほとんど影響されない事でした*13。リアルタイムで体験した苦痛を「合計」するのと、後になって思い出す苦痛の「合計」は、必ずしも一致しないという事です。


これは、倫理的な判断をするには行動の想定される結果をまず考えるべき、という帰結主義という考えにとっては大問題になります。例えば、いくら他人に苦痛を与える行為でも、相手が思い出せなければ問題ないという立場も可能なのではないか、などと考える必要が出てきます…という話は自分の興味に引っ張り過ぎかもしれないので割愛しますが、読む人それぞれの興味によって、深入りしたくなる部分がある本ではないでしょうか、というところで終わりにします。

*1:アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞

*2:修正する能力がなければ市場から出て行く事になるだろう、等々

*3:一般向けの本という事で、用語の厳密性は著者自身が少し緩めているようです。

*4:ジョージ・バークリーの引用とされていますが、出典がちょっと調べただけでは分かりませんでした。

*5:技術を要求されるゲームでは大体そうでしょう。というか、「技術を要求される」、というのはそういう意味と言って良いかもしれません。

*6:Kahnemanの挙げる例には、裁判官が、空腹状態の時に仮釈放の判定に厳しくなる、という恐い話があります。S. Danziger, J. Levav, and L. Avnaim-Pesso, "Extraneous Factors in Judicial Decisions," PNAS 108 (2011): 6889-92.

*7:これはスターリンの引用とされていますが、(システム1に訴えかける)出来すぎた話らしいです。http://en.wikiquote.org/wiki/Stalin#Misattributed

*8:T. Gilovich, R. Vallone, and A. Tversky, "The Hot Hand in Basketball: On the Misperception of Random Sequences", Cognitive Psychology 17 (1985): 295-314.

*9:特にNate Silver

*10:もちろん、バイアスが認識されれば即解決されるとは思っていません。

*11:こんなジョークも見ましたが。

*12:というとなんか怪しいですね…(笑)

*13:D. A. Radelmeier and D. Kahneman, "Patients' Memories of Painful Medical Treatments: Real-time and Retrospective Evaluations of Two Minimally Invasive Procedures," Pain 66 (1996): 3-8.